(十一)御着城落城

播磨の智将 黒田官兵衛

 三木城攻めはひとまずおいて、有岡城に幽閉されていた官兵衛は、西播磨一の勢力を有する御着城へ秀吉が攻めかかった頃には救出されていた。一時、疲れきった身体を有馬の湯で癒し、三木城を攻めていた秀吉を訪ねた後、姫路城へ帰っており、主家攻撃には参加していなかった。代わって妻・光の実家、志方城主櫛橋伊定か、その一族が降伏勧告に出掛けているが、小寺政職は人質を差し出すこともせず、開城にも耳を貸さなかった。
 寄せ手は、信長の嫡男、信忠を総大将に蜂須賀、滝川、筒井、明智などの軍を合わせ一万余騎。秀吉はまず大塩山の城を落とすと別所村の寺院、付近の民家に放火、御着の東方、樋山に陣を張る。これに対し、御着方は大手の大将、小寺孫助、岡村孫太夫、長浜河内、原小五郎はじめ、井上喜右衛門、板場八十郎、西垣惣兵衛、石見六郎左衛門、斉藤九助らの諸将。城を出ては白兵戦を展開、鉄砲、矢を交わしたりした。
 御着茶臼山にあるこの城は、大永年間(一五二一~)に築かれた堅城。城の北から西南にかけては天川が流れ、四方に塀を二重三重にうがって、ここから水を引いているため、要害堅固。城内からは川を渡って、城へ攻め込もうとする寄せ手に鉄砲、矢のつるべ撃ち。見晴らしがきくために百発百中。さらに怯むところを天川を渡って攻めかかると、さしもの秀吉も馬首をめぐらして後退、軍は大混乱に陥るという有様だった。
 この激戦の最中、原小五郎は秀吉の旗印ひょうたんに矢を射かける。小五郎は、近隣にきこえた弓矢の名手。「秀吉が矢を取らせると、原小五郎と姓名を書き付けた矢が数本突っ立っていた」(播磨鑑)ので、思わず胆を冷やしたという。
 翌日、一気にもみつぶそうと秀吉は波状攻撃を仕掛ける。大砲を繰り出し、火矢を射かけて攻め立てた。城兵は多勢に無勢。いまはこれまでと城主、小寺政職は城を出ると英賀城(姫路市飾磨区)へ逃げのびたため、御着城はたちまち落城した。
 御着落城の時期については諸説あるが「姫路城史」は三木落城以後としており、御着攻めには相当手こずったようだ。
 一方、三木城では糧道を断たれ、餓死者は日ごとに増えていった。天正八年が明けると、秀吉は一気に攻撃を開始した。
 正月六日、秀吉はまず城の南方、宮の上を乗っ取り、軍を城下まで進め、十一日には山下に火を放って別所友之(長治の次弟)の守る鷹ノ尾城、吉親の籠もる新城に攻めかかった。
 「餓死か降伏か」。ついに最後の決断のときはきた。本丸を囲まれた長治は、出撃するに兵なく、守るに食糧なしという「干殺し」作戦に、絶体絶命の窮地にあった。今は幽閉と化した将兵をして抵抗を続ければいたずらに死者を増やすばかりだと判断した長治はついに、降伏状をしたため、秀吉に送った。小三郎長治、彦之進友之兄弟と山城守吉親の連名になっていて、この三人が十七日に自決するから、城兵、帰女子の生命を助けてほしいというのである。
 秀吉はこれを許しただけでなく、返事とともに栁樽二十個と肴類を添えて城内へ送り届けた。
 一月十六日、深夜まで主従別離の宴を張った長治、友之は翌十七日、早朝に起き出すと斉戒沐浴を済ませ、家重代の具足を飾り、香を焚きしめて自決の時を待った。〈つづく〉

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