(十四)秀吉の姫路城

播磨の智将 黒田官兵衛

 天正八年(一五八〇)四月、秀吉は三木城から姫路城に移り、三木には杉原家政を城代として残し、早速、姫路で新たな築城にとりかかる。縄張りを浅野長政に、普請奉行を長政と官兵衛に命じた。「姫路市史」は築城の経緯について、「実質的には、秀吉が官兵衛を相談役に決定したのではないか」と記している。大工棟梁には、志摩国磯部から名匠の聞こえが高い番匠磯部正次郎直光を召し寄せた。
 全播磨を平定したとはいっても、まだ中国攻めを控えた戦争の途中でもあり、築城は大急ぎで行われた。石垣には墓石、碑石もかき集めたばかりか、建築物には周辺の廃城から古材も取り寄せた。
 翌九年三月には、西国筋では最初の本格的な三重四階建ての天守閣や多数の櫓、門、石垣など堅固な構えの城として完成した。この城は意外に広く、現在の本丸、二の丸、備前丸、上山里、東の帯櫓などの主要部分は既に当時からあったのではないかと推測している。この三層の天守は、播磨灘の船上からもはっきり望見できたといわれ、世人は後に「太閤丸」と呼んだりした。
 余談ながら、昭和三十九(一九六四)年にかけて行われた「昭和の大修理」の際に、大天守閣地下から太閤丸のものと思われる天守台の礎石が出土した。今、登閣口のすぐ東側に復元されているのがそれである。
 秀吉と官兵衛の築城は、天正八年四月に始まって翌年三月に終わった。戦時下の事でもあり、作業は突貫工事で続けられた。その間にも、秀吉は宍粟市の大部分を支配、最後まで毛利方として抵抗を続けた長水城の宇野祐清を攻める。五月九日、官兵衛と蜂須賀家政、神子田半左兵衛、木下重堅らの秀吉勢に攻められ、長水城は落ち、播磨の戦国時代は終焉を迎える。
 宇野氏滅亡後、播磨平定の恩賞として官兵衛は揖東郡福井荘(姫路市)など一万石を与えられ、山崎城(今の篠ノ丸城か)に入る。播磨時代の官兵衛にとって、この地で最初で最後の領主の座を得たのである。この時官兵衛三十四歳。これ以降、官兵衛が播磨で戦うことはなかったが、戦から解放されたわけではなかった。
 築城の喜びも束の間、この頃の秀吉は忙しい。その年の六月には但馬に進軍、九月から十一月にかけては由良、岩屋城を落として淡路を平定、翌九年六月には官兵衛軍をはじめとする四万の大軍を率いて鳥取城を攻め、有名な「干し殺し」作戦で城主、吉川経家を自害に追い込んで落とすなど、文字通り八面六臂の働きぶりであった。
 そして迎えた天正十年は、歴史上でも秀吉、官兵衛主従にとっても大きな節目となる事件が起こる。三月、四国・阿波国に長宗我部元親攻略から帰国したばかりの官兵衛は、秀吉に従って播磨から備中へ。冠山城、続いて岡山城、鎌倉ヶ峰城、さらに備中高松城攻めに加わる。〈つづく〉

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