日記が語る英賀城の姿
英賀の町には、土地神の英賀彦、英賀姫の二柱を祀る英賀神社があり、この神社に英城記と英城日記が保存されてきた。
神社には、作家の阿部知二氏が訪れたことがあったし、司馬遼太郎氏も訪れている。
司馬氏の祖父は、英賀神社の西を流れる夢前川西岸にある広畑の出身、司馬氏にとっては祖先と縁がある土地であり、そんな地縁が後日「播磨灘物語」を書かせた。
英賀の地は、瀬戸内海に面する要衝の地で、秋の晴れた日は遥か四国の山並みが見え、瀬戸内海の海上交通に睨みをきかすには格好の地であった。
古くは吉川氏の守護地、のち西播の雄、赤松氏が領したが、赤松則尚の死によって、三木通近がこの地に移って英賀城主となった。
通近は、伊予の国主、河野刑部大輔遠江守通直の五男であり、祖は元寇の役で活躍した河野水軍の通有である。勲功によって讃州(香川県)三木郡を拝領したことから、河野の一族は三木を名乗るようになったが、その水軍の血を引く、通近が英賀の城主となったのである。嘉吉元年(一四四一)のことであった。通近から九代、一三九年続いたが、四世通武が播磨の三大城といわれている英賀城を築いた。
城には平城、山城、海城(水城ともいう)の3種類あるが、英賀城は珍しい構造の海城だった。
つまり、播磨灘を背にし、西を流れる夢前川と、東を流れる水尾川の間に土塁を築き、その内側に本丸を中心とする城砦や町をつくった。
この築城の狙いは、攻撃を受ける危険のあるときは、夢前川の堤防を切って土塁外側を水没させると、城そのものが島となり、陸からの攻撃が不可能になる。そして背後の海から物資の補給、連絡に当たるというもので、如何なる大軍の攻撃にも耐えられる難攻不落のものであった。加えて三木一族の結束が固かったため、群雄割拠、弱肉強食の戦国時代によく耐え、西播磨の雄としての地盤を固めた。
ところが、そんな英賀城の三木氏がなぜ織田信長や秀吉に楯つき、難攻不落を誇った英賀岩繫城がもろくも落城したのか、この謎には幾つかの原因があったようだ。
一つは本願寺と深い結びつきにあったこと、二つは秀吉独特の奇策にあったことがあげられる。〈つづく〉
〈みき・こうへい〉
1923年(大正12)姫路市に生まれる。立正大学中退後、応召。46年中国から復員。阿部知二の門をたたき、「仲間」同人に。公務員、学校教師、ルポライターを経て、アジア文化研究所を設立。以来国内、アジア諸国を歩き、執筆活動に従事。主な著書に「参謀辻政信・ラオスの霧に消ゆ」、ブルーガイドパシフィック「タイ」など多数。故人。