三木城と英賀城の関係
播磨の国は、信長にとって平和裡に手中におさめたい地であった。播磨の背後には巨大な毛利勢力が控えている。信長の意に従わぬ毛利を討つにしても、まず、播磨の大名勢力を自派陣営に吸収することが戦略的にしても必要であった。
そのため信長は秀吉を播磨の加古川へ差向け、播磨の諸大名、豪族を集めて毛利進撃の協議を行わせたが、この協議は不調に終わった。
秀吉の強圧な態度に、播磨で最も勢力のある三木城主、別所長治側は反撥したのである。
このことから、信長の中国遠征の前哨戦といえる播磨攻めは開始された。総指揮官は秀吉、第一の目的は三木城を攻めることだった。ところが、播磨の諸大名が別所を応援したことから、三木城の防衛は秀吉の予期せぬほどに鞏固なものとなった。
この三木城主、別所長治と英賀城主、三木通秋は従兄弟の間柄である。当然、英賀城から援軍や糧米が三木城へ送られた。加勢した援軍は、野中専広、同庄五郎以下三百七十余騎である。
また雁南源太郎を奉行として糧米を送り出したが、包囲されている三木城へ届けるには大変な作戦だった。要路を抑えられているため、直接、三木城へ送り込むことはできない。そのため奉行の源太郎は、糧米をひとまず摂津の円生山砦へ運び、ここから山路を伝って三木城へ運んだ。昼間は敵に発見されるおそれがあるので、多分、夜陰に紛れて運ばれたことであろう。
この山伝いの輸送作戦は、山と海との違いはあるが、第二次大戦のソロモンにおける、島伝いに軍需物資を輸送したネズミ作戦に似ているし、ベトナムにおける山間部を伝って南ベトナムの解放戦線へ軍需物資を輸送した、ホーチミンルートの輸送作戦と同質のものだった。
秀吉は、これらの三木城への援助を断ち切るため、三木城包囲の作戦とともに、播磨路の応援大名への攻撃という二つの作戦をとらざるを得なかった。
三木城が一年七カ月という長期籠城の末、城主別所長治のドラマチックな死によって落城したのが天正七年(一五七九)一月十七日である。
しかし秀吉は、この落城を見越して播磨路の各城を攻撃していた。三木城攻撃に手間どっていたが、本来の目的は毛利の中国攻めである。
秀吉の意図を察知した英賀城主の通秋は、秀吉が三木城を包囲攻撃中、やがては三木城が落城し、次いで英賀城を攻撃するであろうことを予知し、城を大改修して防戦に備えた。
予想通り、三木城落城前に兵力をさき、秀吉の異母弟秀長を総大将とする軍勢が英賀城の攻撃にかかった。〈つづく〉
〈みき・こうへい〉
1923年(大正12)姫路市に生まれる。立正大学中退後、応召。46年中国から復員。阿部知二の門をたたき、「仲間」同人に。公務員、学校教師、ルポライターを経て、アジア文化研究所を設立。以来国内、アジア諸国を歩き、執筆活動に従事。主な著書に「参謀辻政信・ラオスの霧に消ゆ」、ブルーガイドパシフィック「タイ」など多数。故人。