第10回 藩主二代が幕府中枢に

坂本龍馬と播磨の群像

 「甲子の獄」の翌、慶応元年(一八六五)二月、姫路藩主酒井忠績は大老に任ぜられた。大老職は、井伊直弼の死去以来ずっと欠員になっていたもので、しかも威信が下がる一方の幕府最後の大老となった。しかし姫路藩内では、これによって尊皇攘夷運動はすっかり影をひそめ、佐幕派一色となる。
 次いで四月、忠績大老のもとで、幕府は再度の長州征伐を命じ、将軍家茂は大坂城に大本営を置いた。その際、忠績は江戸城留守居役の任にあったので、同族の旗本の養子となっていた忠惇(十二歳年下の実弟)が代わって長州征伐の軍に従うことになった。しかし、この幕長戦争に薩摩軍が参戦を拒否したことから、戦いは一進一退。七月になると、幕府軍の敗色が濃厚になり、悪いことは重なるもので将軍家茂が急死する。こうなったら戦どころではなくなり、徳川家を相続(将軍就任は十二月)した一橋慶喜は長州に対する戦闘を休止、厳島での勝海舟と長州藩の談判の結果、撤兵してしまう。長州征伐は失敗に帰したのである。
 慶喜が十五代将軍に就任直後、今度は孝明天皇が疱瘡を発病して急死してしまった。この混乱の最中、長州征伐の軍に従うことなく江戸城の留守居役を命ぜられていた忠績は、翌年、大老職を退くと忠惇に家督を譲って隠居してしまう。忠惇が姫路藩に迎えられた慶応三年は幕府の命運も尽きようとしていた時だった。
 この年、坂本龍馬が京都・近江屋で同志中岡慎太郎とともに暗殺されるのだが、この頃の国内は、徳川幕府に忠誠を誓う佐幕派、穏健な改革派、倒幕派に分かれ、大名たちは政争の場を離れるように帰国していた。忠惇は将軍の求めに応じて、江戸から京都へ向かったが、すでに王政復古の大号令が下されており、慶喜の待つ大坂城へ入った。ここで忠惇もまた、幕府最後の老中上座に任ぜられる。二代続きで幕府の中核を担うのだが、ときあたかも鳥羽・伏見の戦い(戌辰戦争)の直前であった。
 鳥羽伏見の戦端は、慶応四年(明治元年)一月三日、薩摩軍の砲撃によって開かれる。幸いというか、姫路藩の軍勢二百余は会津、桑名藩の後詰めとして大坂城の警備を命じられていたため、直接戦闘に参加しなかった。
 この戦いは幕府方の敗北に終わり、慶喜将軍は老中主席の忠惇らを伴い、大坂城を出て江戸へ逃げ帰った。警備に当たっていた姫路藩兵は用なしになったわけで、家老高須隼人らに率いられ、姫路へ引き揚げたのだった。直後、幕府方の諸藩に対して、朝敵討伐令が発せられ、ついで翌日の一月十一日には岡山藩主池田茂政、龍野藩主脇坂安宅に姫路藩討伐令が命ぜられた。
 岡山藩池田家といえば、姫路城を築城した池田輝政の子孫に当たる。まさに歴史の皮肉といえる事態だった。〈つづく〉

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