国産初の造幣局向け硬貨計数機
〝求める⼼〟を全員が持つこと
グローリーの創業者、尾上壽作(壽男⽒の⽗)の⾔葉に「企業の経営は⾮常に厳しく、利潤追求は⼨時も怠ってはならないが、⼈としての道を忘れてはならない。企業が⼈の道を忘れて利潤追求に⾛ると⼈間性を失う結果となり、やがては⾦の亡者になってしまう。企業の社会的使命を⼗分に認識し、正しい経営を貫き業績向上に努めるとともに、誇り⾼き企業としてより⼀層の成⻑をされることを期待する」というのがありましてね。先だっての新⼊社員向けの講話でも、この創業者の精神を受け継いでほしいということを話したんです。
それから、グローリーの原点に〝求める⼼〟というのがありまして。創業者は「新製品の開発は初⼼忘るべからず、いつまでも〝求める⼼〟を全員が持つこと。特に幹部は必ず新製品を間断なく獲得するという決意を持つとともに、技術のレベルアップを促進されたい」という⾔葉も残しているんです。〝求める⼼〟というのは表⾯的に⾛ってしまうと駄⽬なもので、その中⾝を、⼼を受け継いでほしいと。私も親⽗と⼀緒に⽣活していたから、しょっちゅう聞かされていましたな。
創業者・尾上壽作氏
グローリーは1918(⼤正7)年に姫路市東延末で祖⽗作兵衛がつくった、電球製造機の修理⼯場「国栄機械製作所」が起こり。26(⼤正15)年に南畝町に移転したんだけれど、翌27(昭和2)年には⽗壽作が代表社員になった。私は35(昭和10)年に⼯場の隣の家で⽣まれたから、会社との係わり合いは82年ということになる。4つか5つくらいの時には、よく会社に邪魔しに⾏っては職⼈に叱られた記憶がありますよ。
45(昭和20)年の⼤空襲では⾃宅も⼯場も焼けてしまいましてね。ただ、空襲に遭うかも知れんということで、現在本社のある下⼿野に⼟地を買って機械を少しだけ疎開させていたようです。だからこの地が出発点であり、親⽗が実質的な創業者であると。最初は、残った2、30⼈の社員とどうやって⽣活するかということで⾊々と苦労したみたいです。私はまだ⼩学校4年⽣くらいだから、⾷べ物が不⾃由やったという程度の記憶だけれど。
戦後の⼤造船時代に造船所の下請けとか⾃前のエンジン開発まで取り組みましたが、やっぱり不景気になったら全然仕事が少なくなってしまったようでね。その頃になると、私もおぼろげながら記憶があります。何とか⾃社製品を開発して安定させないかんということで、まったく素⼈だったんだけれど硬貨計数機というものを作った。何でも、親⽗の弟が造幣局に知⼈がいて、たまたまそこで「硬貨の流通量を増やしていくんで、やってみんか?」と⾔われた話を持ち帰ってきたんだそうです。
これも⼈との繋がりですね。職⼈がみな集まって「本当にできるんだろうか」とか⾔いながらも完成させ、50(昭和25)年に造幣局へ納めることができたんです。この時の1号機は、機械遺産に認定されて本社ショールームに展⽰しています。
また、当時三井造船の部⻑が「ヨーロッパで⾃動販売機が流⾏っているらしい」と、カタログを持ち帰ってくれたんです。見よう見まねで、ガムやタバコの⾃動販売機をつくったんですね。これも、常に「何かないか」と探したことが原点になっていると。
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