小径・長尺で複雑な格子板の曲げ加工もお手の物
創業は1967年。どのような歩みを?
初めは先代である父が家内工業で溶断用ガスバーナーのトーチ先端部分を作っていたが、プラズマやレーザーの溶断機が普及していく過程で取引メーカーの技術者から金属加工ノウハウを教わり、今の仕事にシフトしていった。先代は美観を要求される製品を作るのが好きで、完成すると隠れてしまう架台ではなく、表に出てくるカバー作りを選んで受注していたそうだ。バブル景気もあって、業績もそれなりに好調だったらしい。
私が入社したのは第2次平成不況に入る1997年。下請け、孫請けが多かったこともあり、注文と言えば短納期や低報酬で他社が嫌がる仕事ばかり。こなした割に利益を出せず、2000年代前半までしんどい時期が続いた。
どう乗り越えた?
まずは薄利多売の構造を見直そうとQCDの観点から業務をチェックした。一番の問題は、最終工程となる溶接作業のベテラン職人が納期を意識していなかったこと。笑い話だが、相手の望む納期に間に合わせるのではなく、あくまでマイペースで完成させる〝江渕納期〟という言葉がまかり通っていた。そこで、納期を守るために誰が、いつ何をすべきか、作業工程の見える化に取り組んだ。今でこそ全員がパソコンで一目瞭然にできているが、この時はホワイトボード一面にペタペタと付箋を貼り付けた。
次に見積。まだ先代が1人で財務管理していたのだが、私の妻が本格的に事務を手伝ってくれるようになったのを機に2人で図面の見方を勉強して見積額を改めていった。身内で事務作業を分業できるようになったのは大きな分岐点だった。
もう一つは鉄オンリーからの脱却。遠方の協力会社に外注していたステンレス加工を私が独学で学んだ。ちょうどステンレス製の自動車関連品需要が伸びてきたことも手伝い、メーカー直の仕事も増えて少しずつ利益を残せるようになってきた。
経営が安定してきた時にリーマンショックが起きた。
最悪期に社長を交代した。仕事が一気になくなったので平日は経験のなかった飛び込み営業、週末はひょうご産業活性化センターのセミナー受講という日々を続けた。学んだことを実践しようと、皆をその気にさせるのに『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ…』じゃないが、「完璧じゃなくてもいいから、とにかくやってみよう」と言い続けた。
人を動かすのは本当に大変。今でも続いている。センターの取引商談会にも必ず参加するようにした。そこで繋がった会社もある。