天正五年(一五七七)十月の播磨入りに始まった秀吉の播磨平定は、ようやく大詰めを迎えていた。
「我ら一類の末期このときなりとて、まず膝の上に三歳の嫡子千代丸をおき、一刀にて胸下を差し、女房を引き寄せて同じ枕に差し殺し、絹引きかづけ置いた」(別所長治記)。
三木城中では、別所一族の自刃が進んでいた。次男竹松丸(二歳)、長女於竹(五歳)二女於虎(四歳)も道連れだった。友之夫人は十七歳。懐妊の身であり、泣き崩れたが、とうとう観念して短刀を胸に突き立てた。
定刻の申の刻(午後四時)、長治、友之兄弟は客殿に敷皮を敷かせて左右に直り「吾ら三人生害して諸士を助くるは、最後の喜びこれに過ぎず」といって見事に割腹した。ときに長治二十三歳、友之二十一歳。叔父吉親は「三人が犠牲になって万卒を救うとは理屈に合わない」とにわかに変心したが、小姓の小森与三右衛門に刺し殺され、首を打たれた。
ここに三木城は落ち、名族別所氏は滅亡した。織田に背いて、籠城して以来、実に一年十一カ月目であった。
秀吉は、約束通り三木城中の男女すべてを助命して立ち退かせると、ここを居城とし、安土の信長のもとへは長治、友之、吉親の首を送って三木城陥落を報告した。
今、三木城の天守跡には「今は只恨みもあらず諸人の命にかはる我身と思へば」という長治の辞世を刻んだ石碑が立っている。毎年五月五日には、当時を偲んで「別所公まつり」が催されている。
信長による長治の首実験の後、返されて埋葬したと伝えられる首塚は雲龍寺(三木市上の丸町)にあり、一月十七日には「別所公祥月命日法要」が営まれている。
三木を去るにあたり、秀吉は別所の勢力下にあった東播の諸城、すなわち高砂、阿閑、梶原、明石、平野、東条と置塩の諸城の破壊を命じ、引き返すと、三木城落城後もなお、織田に従おうとしなかった英賀城の河野通秋、長水城(宍粟市山崎町)の宇野民部大輔、親の下野兄弟を攻めることにした。
天正八年(一五八〇)一月、秀吉は英賀岩繁城攻めのため、英賀北方の山崎(飾磨区山崎)に本陣を置くと、町之坪、北条、英賀清水の各構居攻めにかかった。
一年余にわたる三木城攻めの末、やっと別所長治を滅ぼし、さきの平井山の陣中で参謀、竹中半兵衛を亡くしたものの、軍威は振るい、意気天を衝く勢いだった。
英賀城の初代城主は、伊予三木郡(愛媛県)の領主、河野刑部大輔通直の五男、三木右馬頭通道。三木氏は累代伊予の城主だったが、細川氏との戦いに敗れ、播磨の赤松氏を頼って嘉吉元年(一四四一)英賀城に移った。嘉吉の乱を経て、天文十三年(一五四五)、掃部之助通秋が居城、最後の城主となる。
破竹の勢いの秀吉陣と和議をする方法もなかったわけでない。が、三木氏は二つの理由で反秀吉を貫かねばならなかった。一つは三木氏が三木城主、別所長治の縁者だったこと。もう一つは宗教上の理由。
三木氏は、通近から六世通規の代になって本願寺と結託した。永正九年(一五一二)、本願寺実如上人の連枝実円院主を迎えて城内に一庵を建立、三木一族のほとんどがその門徒となり、二年後には壮麗な英賀御堂も落慶した。元亀元年(一五七〇)、信長が石山本願寺に蓮如上人を攻めたときも、三木氏は石山側に加勢、三七〇人の戦死者を出したという経緯もある。
信長への敵意は強く、秀吉軍を迎えた英賀城中には「劣勢とはいえ、秀吉軍に目にものみせてくれる」という気概が満ちていた。こうして英賀城落城の悲劇は開幕するのである。〈つづく〉