(十三)英賀城

播磨の智将 黒田官兵衛

 英賀城は今、英賀神社の裏に土塁が残り、わずかに面影を残しているに過ぎず、城内にあった真宗の大寺院英賀御坊は、焼失後、姫路市亀山へ移された。現在の亀山本徳寺がそれである。本丸跡の碑から約百メートル東にある薬師堂境内に城主の墓があり、河野、井野、三木などの名前がみえる。昔は城外の山の手に堂々たる墓地を構えていたということだが、落城に際しては計ってこれを隠し、後世ここへ移したものか、五輪塔は割合新しい。わずかに残っていた御坊跡も昭和初期に行われた夢前川の付け替え工事により消滅した。
 ここには幕末の国文学者で「播磨奇人伝」「播磨後風土記」を著した宇都宮昌斎(一八〇五~七十五)の墓や、播磨十水の一つである「大木ノ清水」跡もある。また落城後、ゆかりの各家が各所に散ったが、幕府鉄砲方の始祖、井上外記、民俗学で知られる栁田国男博士の実兄で「播磨風土記新考」などの文学者、井上通泰もその子孫である。
 余談ながら、亀山本徳寺ではNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」のロケも行われた。
 わずか数日で英賀城攻めに勝利した秀吉は、英賀から姫路に帰ると、そこを本拠にすることを決めた。「三木城は堅城とは言え、東に偏している。その点、姫路は播磨の中央に位置し、これからも続く毛利攻めに最良の拠点で、しかも古来から海運の要衝でもある」という官兵衛の進言に従ってのことである。
 姫路城を秀吉に譲った官兵衛は、父、職隆の隠居所にしていた妻鹿城に移る。
 姫路市飾磨区妻鹿にある甲(こう)山という小高い山上にある。播磨灘に注ぐ市川に臨み、標高は約百メートル。かつては「国府山」、「功山」とも書かれ、「甲山」の字をあてるようになったのは、昭和の初め頃から。この甲山に築かれたのが妻鹿城で国府(山)城とも呼ばれた。
 鎌倉時代の中頃、妻鹿孫三郎という人物が九州から播磨にやってきて赤松氏に従い、ここに居城を築いたといわれる。後、円心の次男、貞範の子孫、貞祐が応永年間(一三九三~一四二八)にここに住み、妻鹿氏を名乗ったという。
 その後の妻鹿氏については詳しい事は分からない。おそらく赤松氏の衰退で、歴史の舞台から姿を消したのであろうか。
 妻鹿氏の後を継いでこの城に入ったのが、御着城主小寺氏の家老職を務めた黒田職隆である。もっとも、職隆が入城した時はすでに家督を官兵衛に譲っており、宗円と称して出家、隠居してからであった。いわば職隆の「隠居城」となったのである。
 かつての面影は今は全くない。歴史の跡を残すのは、地元有志の手で建立された「妻鹿城址」の石碑と甲山麓にある職隆の墓のみである。
 一方、中国攻略の拠点となった姫路城は、ここに初めて戦略的な城としてクローズアップされる事になったが、元来、御着城の出城として築かれた城であったから、さほど大規模な城ではなかった。〈つづく〉

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