天正十(一五八二)年六月、主君信長の仇を討つために、秀吉は一刻も早く上洛せねばならない。はやる気持ちを抑えながら、秀吉は、湖に漕ぎ出した小舟上で清水宗治が切腹するのを見届けた。
和睦の儀式を終えると、兵士たちに命じて兵糧の徴収にとりかかった。官兵衛はというと、秀吉本陣から離れ、毛利方の追撃を阻止するため、足守川の水取り口から蛙ヶ鼻に至る堤防を破壊した。十二日間かけて築造したのが、わずか数時間で破壊された。このため、後に「堤防は実は高さが二メートル程度だった」との説が有力視されるようになった。
ともあれ、官兵衛の“ささやき”に呼応して、電撃的な反転、史上名高い「中国大返し」を決断する。この時、官兵衛三十六歳、秀吉四十七歳。
六月四日午後、高松城を発した三万の秀吉軍は、吉備路をひた走り、二十二キロ東の沼城に向かう。何しろ重装備の軍勢である。途中で野営後、沼城へ入ったのが五日昼過ぎ。後方を気遣いながらも同夕刻、山陽道を姫路へ向かう。沼城から姫路城までは直線距離にして約六十キロ。実際には七十キロの道程になる。途中には「太平記」に「山陽道第一の難所」とある船坂峠(赤穂市・現在はトンネル)があったことから、食糧などの物資を運ぶ輜重隊は海路を利用したのではないかという説も生まれた。
一昼夜にわたる強行軍の殿(しんがり)をつとめた官兵衛が、本拠地姫路城に無事帰還したのは翌六日夜。妻鹿・国府山城に移って以来、久方ぶりの姫路城ではあったが、感慨に浸る間もなかったであろう。
秀吉が、妻おねの兄、木下家定を城代として城に留め、姫路を発ったのは六月九日朝。滞在は二日とわずか。ここから再び明石、兵庫、尼崎を経て摂津・山崎へ。この間にも毛利の海上侵攻に備えて洲本城を落としている。そして秀吉の天下取りの第一歩といえる「信長弔い合戦」で、淀川沿いの要衝、山崎・天王山に明智光秀を撃破。
残党を掃討し、戦後処理を議論する清洲会議でも発言力を増した秀吉は、京都大徳寺で信長の葬儀を行うなど、信長の後継者としての地位を印象づけるのだが、それは日本史に詳しい。
これで国府山城の官兵衛の戦いは終わったわけではない。相変わらず秀吉の手駒として、東へ奔り、西へ走らねばならなかった。二人の関係は、単に大将と軍師、主従とかいうものを超越した。分身ともいえるものだったのではないか。〈つづく〉