「生涯五十戦で一度も敗北しなかった」と官兵衛の武名は語られる。龍野城主、赤松政秀を姫路・青山の土器(かわらけ)山に迎撃して勝利した二十四歳の初陣以後、宍粟の長水山城を落とすまでの約十年間は、秀吉の播磨侵攻に加わっての戦いで、正確な記録は多くないし、戦勝にも報われることはなかった。備中・高松城の水攻めから「中国大返し」と呼ばれる回軍以降、中世史の舞台として脚光を浴びた播磨の時代は終わりを告げ、歴史の主役は秀吉とともに京・大阪に移っていった。
官兵衛の戦いも播磨から遠く離れた地で行われる。戦跡を追ってみると、まず天正十一年(一五八三)四月に賎ヶ岳の戦い(柴田勝家を破る)に参画、次いで十三年六月には、四国征伐の軍監として讃岐、阿波に転戦、翌年七月には毛利、吉川らとともに九州攻め(小倉城など攻撃)の露払い役を務める。
秀吉の西国制圧が現実のものになった十五年、官兵衛は論功行賞として豊前(大分県)の六郡十二万石(後十八万石)を与えられる。播磨小寺氏の家老から身を起こした黒田家は、ようやく大大名の仲間入りを果たしたのだったが、同時に論功行賞として、筑前・筑後に三十三万六千石を与えられた小早川隆景、肥後五十二万石の佐々成政の優遇ぶりからすれば、あまりにも少ない石高といえる。このとき官兵衛が残したという名言が「黒田家譜」に記録されている。
「我人に媚びず、富貴を望まず」。
翌十六年、中津城が竣工すると、嫡子長政とともに移った官兵衛は、家督を長政に譲って隠居、如水円清と号した。四十四歳だった。
しかしなお、官兵衛が戦から解放されることはなかった。小田原の北条攻め(一五九〇)に参加、文禄の役(一五九二)では明韓征伐に従軍した。
関白にまで上り詰めた秀吉が病没すると、天下は再び風雲急を告げると予感した官兵衛の見通しのとおり、慶長五年(一六〇〇)、石田三成が挙兵する。関ヶ原合戦である。官兵衛は、長政に大軍を与え、東軍徳川方へ参陣させるとともに、自らは九州にあって中津城から出陣、三成の与党を打ち破り家康を喜ばせた。
しかし、長政を徳河軍に従わせ、一方で九州を制圧したのは家康に対する忠誠心ではなく、九州、中国を自ら制して天下を狙おうという官兵衛の深謀からだったともいわれる。だが、関ヶ原合戦が予想外に早く決着がつき、ついに野望を遂げることはなかったというのだ。
九州攻めの功労で、筑前五十二万石を与えられて喜ぶ長政に、「親の心を知らざる愚者なり。余の九州活躍は家康のためならず、汝のためなり」と真意を遺言状に伝えたという。いかにも「国取り」を志す戦国武将らしい逸話ではないか。
天下を手中にした家康は、黒田父子に対する恩賞として長政に筑前一国五十二万三千石を与える。長政は福岡城の築城にかかった。黒田家はこの地で明治維新を迎えることになる。
官兵衛は、天下取りを目指した英雄たちと接しつつ、同様に天下取りの夢を見続けたのか。
「おもいおく 言の葉なくてついに行 道はまよハし なるにまかせて」の辞世の句と数々の伝説を残して、京・伏見屋敷で没したのは慶長九年(一六〇四)三月二十日、五十九歳だった。〈おわり〉
[主な参考文献]
平野庸修「播磨鑑」
橋本政次「姫路城史」
島田清「古城」
英賀城保存顕彰会「英賀城」
金原稔「姫路城略史」
姫路市「姫路市史」
姫路市立教育研究所「郷土史学習資料」
山川出版社「兵庫県の歴史」