難攻不落の英賀城陥落
秀吉の英賀城攻撃は天正八年(一五八〇)一月十日ごろからはじまり、城を取り巻く砦が一つ一つ落とされ、二月十日にはほとんどの出城が落ちたので、出城に籠り防戦に当たっていた将兵は本城に退き、英賀城の防衛を固めた。
英賀城は夢前川と水尾川に挟まれ、この両川の水を落とすと、土塁外側は腰まで没する泥ねいの海となる。
このことのあるを予知し、二年の歳月をかけて城砦を補強し、武具、資材、食糧を蓄積していた。さらに近郷から加勢の援軍が続々到着、戦意が大いに上がっていた。
その後、三木城を落とした秀吉軍も加わり、二万の軍勢で英賀城の三方を囲み、一斉に攻撃をしかけたが、天然の要塞と化した英賀城の守りは固く、どうしても本城に突入することができなかった。泥ねいと化した外濠が秀吉軍の進撃を食い止めていたのである。
これでは騎馬で突入することも、奇襲攻撃をかけることもできない。秀吉自慢の鉄砲隊の活躍もおぼつかない有様だった。そこで秀吉は、軍使を立てて和睦を申し入れるとともに、英賀城の武将の懐柔策を考え、実行に移した。
和睦の内容は、秀吉の軍門に降り、その配下となることである。この申し入れに対し、英賀城側では城主以下重臣で協議したが、一人としてこの申し入れを受けようとする者はいなかった。
次いで秀吉は、英賀城の武将五名に対し、高禄の朱印を与えて秀吉側へ寝返ることを奨めるとともに、英賀城の防備態勢、特に弱点とする箇所の教示を求めた。
戦乱の世は、武士といえども浮草の心を持っている。
彼等五人は、秀吉の懐柔に応じ、難攻不落を誇る英賀城防衛の弱点を教えることになった。
英賀城の弱点は、陸から攻撃しても川や深い泥ねいの濠があって攻めきれないのだが、しかし背後の海は遠浅の上、配備が手薄だった。そこで秀吉は、二月十二日、飾磨で借り集めた漁船を使用し、夜陰に乗じて海から英賀城の背後を急襲した。
不意打ちを喰らった英賀城は、必死に防戦したが利あらず、翌十三日、遂に落城した。英賀城側の戦死者は、三木の一族郎党百七十余、その他侍、雑兵八百二十三人の多数にのぼった。城主の通秋と嫡子の右馬助安明は、後日を期して筑紫へ逃れ、この戦いは終わった。
幻の英賀岩繫城と落城の記録は、英城記・英城日記と姫路城史に残っているが、内容において若干の相違がある。
その後の英賀の里は、姫路城の出現によってさびれ、ひなびた一寒村として、昔日のおもかげが歳月とともに消されていった。しかし、山陽本線の小さな駅で「アーホー、アーホー」と連呼されたこの土地も、今は工業都市化の波が押し寄せ、日毎にその様相が変化している。
ただ、英賀神社と土塁の一部は残っているが、かつての栄華を偲ぶにはあまりにも寂しい〈おわり〉
〈みき・こうへい〉
1923年(大正12)姫路市に生まれる。立正大学中退後、応召。46年中国から復員。阿部知二の門をたたき、「仲間」同人に。公務員、学校教師、ルポライターを経て、アジア文化研究所を設立。以来国内、アジア諸国を歩き、執筆活動に従事。主な著書に「参謀辻政信・ラオスの霧に消ゆ」、ブルーガイドパシフィック「タイ」など多数。故人。