話は横道にそれるが、この大村・平田の戦いで別所方の侍大将であり、春日山城(福崎町)城主の後藤又左衛門将監(基国)が戦死している。後の筑前時代、黒田家にその人ありと言われた黒田二十四騎の一人、後藤又兵衛基次の父である。
智勇兼備の武将、後藤基国ははじめ、織田軍との合戦の不利を説いたという。しかし、別所長治の決意にさからえず、恩顧に報いるため、城を枕に討死する決意をしたものの、当時、八歳にしかならない又兵衛を道連れにするに忍びず、一夜ひそかに官兵衛の陣所を訪ねて、又兵衛の後事を託したとされる。三木城には父子とも籠城に加わったが、又兵衛は脱出して後に官兵衛に養育される。
「播磨鑑」には「はじめ御着城主小寺氏の家臣で、御着落城の後、黒田氏の客分として筑前へ行き、軍功を上げ千五百石を賜ったが、長政の時代になって播磨へ帰る」とある。一説に、又兵衛の出生地は山田村南山田(姫路市)であったともいう。又兵衛が後に、大坂夏の陣に参戦、戦死したのは有名である。又兵衛から数えて十六代目にあたるという加西市坂元町(春日山東方)の後藤平一さん宅には、又兵衛が秀吉から授かったという「木」紋入りの裃、愛用の槍、脇差などが長らく伝えられていた。
大村・平田合戦から遡ること三カ月。この年の六月に、秀吉が片腕と頼りにしていた軍師、竹中半兵衛重治がついに不帰の人となる。半兵衛は元亀年間、秀吉が江州小谷城に浅井長政を攻めたとき以来、十年間帷幄(いあく)にあり、播磨攻めにあっては、官兵衛とともに「二兵衛」といわれた智将。だが、春から肺患が悪化、京に静養していた。
有岡城へ村重を説得に赴いた官兵衛が消息不明になり「さては寝返ったか」と怒った信長が、人質の嫡子、松寿丸(のちの黒田長政)殺害を命じた際には、秀吉の頼みで、領地の不破郡岩手城にかくまい、わが子のように育てた半兵衛だった。死期が迫ったのを知ると、半兵衛は「武士たるもの戦場で死にたいものだ」と籠で平井山の陣所へ帰り、六月十三日没した。行年三十六歳。安福田の栄運寺に葬られた。今も秀吉の本陣跡西側の山麓に白い塗り塀に囲まれた墓があり、毎年七月には、地元の人々によって法要が営まれている。
右腕とたのむ半兵衛を失った秀吉は悲嘆にくれたが、感傷にばかりふけってもいられない。巻き返しをはかる毛利勢が、三木城への兵糧運搬のため攻撃をしかけてきた。
吉川の将、生石中務少輔を大将とし、紀州雑賀の衆が護衛する計八千余の将兵が谷大膳の守る平田の付城を急襲したのは九月十日深夜。雑賀衆が射かける鉄砲に、谷大膳は討死、吉川の軍に呼応して三木城からは別所吉親が城を出、平田・大村へ向かった。これに対し、秀吉も一千余騎を繰り出し、加佐を経て進軍する毛利勢に立ち向かった。こうして大村・平田では両軍主力が激突する。だが、この戦いでも三木方は長治の叔父、別所治之をはじめ将兵、八百余人が戦死、負傷者が相次いで大敗を喫する。以来、包囲網はさらに狭められ、三木城の糧食は底をつくのである。
包囲戦と並行して和平交渉も行われていた。増位山地蔵院(姫路市白国)の休夢和尚は官兵衛の叔父にあたる人だが、秀吉は休夢に書を与えて別所長治に開城させようとしたが、三木方の拒否にあって失敗した。
足かけ二年。三木城の糧食はついに断えた。城内は「十余日食事を断ち、諸侍の乗馬を差し殺し、軍兵糧に与えしかどもかなわず、軍勢弱まり、塀の下、狭間の陰に伏し倒るありさま哀れなる次第」(別所長治記)という飢餓状態。城中の兵たちは衰え、鎧は重くて身体すら思うように動かぬほどとなった。
こうした中で、天正七年(一五七九)十二月、秀吉は御着城に攻めかかる。〈つづく〉