第2回 なぜ、作州生誕説が?

宮本武蔵 播磨の剣聖

武蔵は幼くして両親と死別します。そこで、伯父(実父家貞の弟)平尾無二之助の養子となって美作へ移り住むことになるのです。八歳ごろであったといいます。無二之助も播州の名家、赤松の流れを汲んでいて、新免家に仕えたので新免とも宮本とも名乗ったのです。
吉川英治の小説「宮本武蔵」では、父は十手術の新免(平田)無二斎武仁ということになっています。だから「宮本武蔵」が大衆に愛読され、大原町で武蔵研究が進むにつれて、武蔵は美作の生まれだというのが定説とされました。
しかし、無二斎は墓碑や過去帳の写しに「天正八年四月、五十歳で歿」とあって、武蔵の生年と四年ものズレが指摘されています。それでも、国民的ともいわれた作家の影響は大きい。「播州の武士だ」といい張っても届きませんでした。
大原町は、武蔵が幼い日々を過ごしたという平福(佐用郡佐用町)と釜坂峠を経て直線距離で十キロばかり。近年、「武蔵の里」と称して武蔵神社、資料館、宿泊施設、さらには生家、父子の墓などを整え、年間十七万人を超す観光客を呼び込んでいます。
もともとは播磨でも武蔵誕生説はありました。播州生誕説は昭和三十六年、武蔵の養子伊織と小原玄昌の兄弟が加古川市にある泊神社社殿を改修した際に奉納した棟札が発見されるに及んで、一気に浮上しました。
伊織は、後に小倉藩主小笠原家の筆頭家老にまで昇進した人物です。
この棟札は、武蔵歿後、八年目の承応二年(一六五三)に書かれたもので、「赤松氏の家系で、代々、雁南庄に住んだが、美作にいた平尾家に後継者がなかったので、武蔵が養子となった」とあります。
さらに伊織は同時に高さ三メートルに及ぶ大灯籠を、両親の名義で石灯籠二基を寄進しています。
ただ、宮本村には「宮本武仁と武蔵が住んでいた」という古文書があって、その住居跡が残っていたことが美作説の根拠になったのでしょう。〈つづく〉

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