慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣や慶長二十年(一六一五)の夏の陣を経て世情が落ちつくと、武蔵は生まれ故郷の播州に帰ってきました。明石城主小笠原忠真の客臣となります。
忠真が信濃国から明石に国替えになったのは元和三年(一六一七)。翌年、将軍秀忠が忠真に「(姫路城主)本多忠政と相談して明石城を改築せよ」と命じました。忠真夫人は忠政の娘です。
このとき築城と並行して城下町の町割りが設計され、実施されました。明石の町割り、すなわち都市計画は、明石に遊寓していた武蔵の設計によったことが小笠原家の記録にあります。
忠真は茶の湯を好んだので、造園にも趣味があり、城内山里曲輪を樹木屋敷と呼ぶ遊園に仕立て、泉水、築山、樹木、茶亭などを配しましたが、その設計も武蔵が手掛けたものです。
佐々木小次郎と決闘したのは慶長十七年ですから、剣名大いに上がっていたころでした。名声を聞いて訪れた剣客、修行中の武士は少なくなかったはずですが、当時の武蔵に勝負の話はなく、もっぱら町割りと造園に打ち込んでいたようです。
このころの姫路城主は本多美濃守忠政。徳川四天王の一人、本多忠勝の嫡子忠政は、元和三年(一六一七)に姫路城主(禄高十五万石)になって桑名から移封しています。
姫路には当時、もちろん武蔵の門下も多く、従って武蔵の噂も忠政の耳に届くことになりました。小笠原忠真の紹介によって忠政の知遇を得た武蔵は、姫路藩でも客臣になりました。忠政・忠刻父子に剣の指南をしたり、城下の寺院の造園をしたのではないでしょうか。
忠刻は大坂の陣の後、二代将軍秀忠の娘、千姫が再嫁した相手です。このころ、姫路城は千姫の化粧料十万石で西の丸が造営されていました。古文書には西の丸には庭園も造られたとあることから、武蔵はここでも城づくり、庭づくりにかかわったことでしょう。いずれにしても、千姫と武蔵は同じ時代に姫路に住んだといえます。
武蔵はさらに、最初にとった養子、三木之助を忠刻に小姓頭として仕えさせています。しかし、忠刻は寛永三年(一六二六)三十一歳の若さで病死してしまいます。
三木之助は即日殉死、家来とともに書冩山圓教寺境内の本多家墓所に葬られています。家臣としては異例のことです。〈つづく〉