第1回 譜代姫路藩にも勤皇党台頭

坂本龍馬と播磨の群像

幕末の風雲児、坂本龍馬。薩長同盟や大政奉還の仕掛け人、明治維新の牽引役となりながら、三十三歳の若さで非業の死を遂げた。
 その激動の時代。播磨で、特に譜代の大藩だった姫路藩では、尊王攘夷から倒幕へと動く時流をどう受け止めていたのだろうか。
 姫路藩にもそんな流れに同調しようとした志士がいたことは知られており、史跡も今に残る。だが、徳川親藩の保守勢力に抗し切れず、その志が生かされることはなく、大かたが処罰された。その結果が「その後は明治新政府から冷や飯を食わされ、余波は現在につながっている」という分析もある。姫路の人々と時代の関わりを追った。

 三百年近くにわたる鎖国のとばりが、ペリー司令長官率いる黒船の来航で突然破られると、衝撃と混乱が日本社会全体をおおった。対内問題と対外問題の深刻さは、国民的規模と言ってもよいほど、すべての階級、階層の人々を政治の激動の渦中にまき込んだ。天皇と将軍、公卿と大名・藩士、さらに庶民にまで。それぞれが、その立場と利害から民族の将来を憂い、政治に働きかけた。文久二年(一八六二)といえば、ペリー司令長官率いるアメリカ東インド艦隊の浦賀来航(嘉永六年)から九年、プチャーチン率いるロシア軍艦の摂海(大阪湾)侵入から八年。生麦事件の報復のため、イギリス軍艦がいまにも大阪湾に向かうという噂が広がっていたときで、薩摩、長州藩をはじめ、瀬戸内沿岸の諸藩もピリピリしていた。
 この年、京都では「天誅」と称して、しきりに暗殺きゅう首闘争事件が起こった。有名な寺田屋騒動がこの年だし、七月に九条家家士島田左近、八月には川路家家士本間精一郎、また九条家家士宇郷玄頭、そして目明し文七と続いた。
 当時、京都では会津藩主松平容保が守護職就任直前で、姫路藩主酒井忠績(ただしげ)は京都所司代代理の職務にあって、これらの事件を担当していた。この前年、藩主の忠顕(ただてる)が江戸の藩邸で死去したため、忠績が家督を継いで八代目藩主に就任。忠顕は十三代将軍家定が上洛中であったため、江戸城留守を命じられていたが、任を解かれて国許に帰る途中、京都に立ち寄った際に、所司代代理を命じられたのだった。京都に着いた忠績は、治安維持のため藩士を呼び寄せた。その中には、尊王攘夷派のリーダー格である河合惣兵衛、秋元安民もいた。これがきっかけとなって、姫路藩士が中央政治の舞台で活動することになる。
 このころ、公武合体論が起こって、天皇の妹、和宮を将軍に降嫁させる工作が進行、薩摩藩主、島津久光が出府の途中、藩船で室津港に着いたのはこの年四月。福岡藩士、平野次郎国臣(のち生野義挙に参加)をはじめ、諸藩の志士が、久光に意見を述べようと室津に集まった。その数二百人に達したという。姫路藩士宅へも自然、こうした尊攘派の出入りも多くなる。酒井家家士でかねて勤王の志を抱いていた藩校・好古堂教授の秋元安民も宿舎の本陣に久光を訪ねている。〈つづく〉

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