秋元安民は、通称正一郎。文政六年(一八二三)元日に姫路城鵤門(くまたかもん)内に秋元右源次の二男として生まれた。生まれつき剛毅で、身体も大きかった。幼いときから学問が好きで、竹馬で遊ぶときも懐中に書を入れて勉学し、神童といわれた。増位山随願寺にこもったり、河合寸翁の仁寿山黌の使丁(給仕係)となったが、藩の制度では教授への登用が難しいというので、一時、龍野藩士として諸藩を遊歴し、小野藩の学者、野之口隆正に師事して国学を学んだ。隆正は元は石州津和野藩士。江戸の昌平黌などに遊学、二十六歳で父の後を継いで同藩大納戸武具役となったが、その後、好古堂や小野藩一栁家、さらに広島浅野家の招きで藩校教授に就任、名も大国と改めた。
野之口は、安民の才能を愛して養子としたが、安民は後、辞して秋元姓に復、さらに若狭・小浜藩の伴信友について学問に励んだ。
嘉永年間に入って尊王攘夷が高まると、姫路藩が藩校・好古堂を拡張、国学尞を設置するにあたって、安民は藩命で呼び返され、もっぱら尊攘の大義を説いた。いわば先駆者である。
安民はまた、洋書を通じて西洋形帆船の構造を研究し、安政二年(一八五五)、藩主、酒井忠顕(ただてる)に建造を進言した。鎖国時代の幕府は大船の建造を禁止していたのだったが、嘉永六年のペリー来航を機に、「今の時勢には大船も必要だ」と方針を変更、諸大名に建造を許可した。
藩では、特産の姫路木綿を江戸に送っていたが、従来の帆前船では往復に日時がかかり過ぎるうえに、年間二、三隻が難破する有様で、その膨大な損害に悩んでいた矢先でもあった。
忠顕は早速、造船の総裁に安民を起用、翌年、室津港で我が国最初の西洋型帆船となる「速鳥丸」を、次いで「神護丸」を建造した。御用船は江戸回船に利用されたが、難破事故は激減、しかも室津港から江戸・品川までを二昼夜で往復するというスピードを誇った。長州藩が速鳥丸とほぼ同じ規模の西洋型帆船を建造したのは万延元年(一八六〇)のことだから、姫路藩の建造は五年も早かったわけである。
この数少ない幕末の西洋型帆船「神護丸」を描いた絵馬(姫路市有形民俗資料指定)が恵美酒宮天満神社(同市飾磨区恵美酒)に残っている。姫路藩酒井家の紋所「剣酢奨草(けんかたばみ)」の旗を翻した帆柱に登っている人、甲板で働いている人、前方に天満神社の鳥居が描かれ、船体には「神護丸」の名がかすかに読みとれる。
文久二年(一八六二)六月、京都所司代代理に就いた藩主、忠績に従って上京した安民は、尊王攘夷派の公家たちと交わったりしたが、二か月後、はやり病に侵され、京都で没した。四十歳だった。〈つづく〉