第3回 揺れる徳川親藩

坂本龍馬と播磨の群像

 万延元年(一八六〇)三月三日、江戸城桜田門外で時の最高権力者、大老井伊直弼(彦根藩主)が攘夷派の水戸浪士たちの手で暗殺されるという事件が起こった。
 これより二年前の安政五年四月、大老に就任した井伊は日米通商条約に調印した。この「違勅調印」をきっかけに、攘夷論は尊皇思想と結び付いて尊皇攘夷論となり、全国的に広がっていった。危機感を抱いた井伊は、自らが推した家茂が十四代将軍に就くと、いわゆる「安政の大獄」と称される弾圧に乗り出すのだが、この時、姫路藩では、藩主酒井忠顕(ただてる)に攘夷の意見書を提出した菅野白華が尊攘派の志士との交際を疑われ、幕府に捕らえられた。翌六年には、姫路の牢獄に移され、文久三年まで五年間、獄中にあった。
 桜田門外の井伊暗殺事件以降、幕府の威信は一気に揺らいでいった。一方で、尊皇攘夷運動を一気に盛り上げる結果ともなった。
 志士たちと交わるうちに、尊皇攘夷論に突き動かされた秋元安民は、姫路藩も尊攘を貫くべきだと主張、元老たちに進言した。このころの藩中は保守的で、こうした機運は盛り上がっていなかったが、隠居中の元家老、河合良翰(屏山)は関心を寄せる。天下の政治動静を探らせるため、安民や「好古堂」寮舎長斎藤勘介らを京都、大阪へ派遣、二人はその結果をつぶさに報告した。
 これをきっかけに、姫路藩内では論議がわき起こった。良翰は次第に尊攘に傾き、それに同調したのが物頭、河合惣兵衛らの一派だった。しかし、何といっても姫路は譜代の大藩。筆頭家老の高須隼人らの保守勢力が強く反対したのも無理はなかった。
 「酒井は徳川家譜代の親藩であるうえに、姻戚関係にある。永年の恩顧を忘れるとは何事だ」というわけである。
 十七世紀初頭、徳川幕府下で姫路藩に入封したのは池田輝政に始まるが、その後は西国の押さえとして譜代大名による統治が続く。池田に続く本多忠政(元和三年・一六一七)以来、松平(奥平)、松平(結城)、榊原、松平(結城)、本多、榊原、松平(結城)と頻繁に代わり、寛延二年(一七四九)になって酒井氏が入ると、ようやく定着、幕末までの約百五十年間、酒井氏の時代が続く。その酒井氏にしても代々、直系の子孫によって引き継がれたわけではない。
 幕末の藩主はというと、嘉永六年(一八五三)に忠宝(ただとみ)がまだ二十五歳の若さで没すると、嗣子がなかったために前藩主忠学(ただのり)の娘、文子を養女とし、三河藩主三宅康直の次男で十八歳の忠顕(ただてる)を婿養子に迎える。さらに忠顕が万延元年十月に、これも二十五歳で没し、嗣子が病弱(翌年三歳で死去)だったので、五千万石の旗本、酒井忠誨の長男、忠績(ただしげ)が養子に迎えられた。時に三十四歳だった。
 いずれの藩主にしても、酒井家支族、直参出身で徳川譜代意識は強かったろう。そんな時にわき起こった尊皇攘夷論である。藩内の意見は二分されることになったのは当然といえた。
 初めのうちは、藩論まで高まるには至らなかった尊皇攘夷思想だが、尊攘の思想は砂にしみ込む水のように、じわじわと、しかし、確実に広がりをみせる。やがて勤王党の一派を生じることになり、後、この対立が犠牲者七十人という大粛清を招くことになる。〈つづく〉

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