設置期間はわずか二年と短かったが、文久二年(一八六三)四月、勝麟太郎(海舟)に幕府から神戸海軍操練所建設が命じられると、諸藩から有志たちが続々と集まってきた。勝の門下生となっていた坂本龍馬ももちろん加わっていたが、その中に赤松大三郎がいた。この大三郎が実は網干・新在家、赤松泰助の孫に当たる。
泰助の長男政範は、父と離別した母の縁で江戸へ出、幕臣の養子となり、吉沢姓を名乗る。その子が大三郎で、後に祖父の赤松姓を継ぐという、複雑な家系ではある。
長じてオランダ語を学び、十六歳で長崎海軍伝習所に入所した。この後、安政七年(一八六〇)には、日米通商条約批准のための遣米使節団を乗せて太平洋を横断した咸臨丸に、勝艦長に従い副官として乗船した。さらに、幕府が外輪軍艦をオランダに発注した際には、榎本武揚らと同国に六年間留学、軍艦の運用術、造船術、砲術などを学んだ。帰国したのは幕府が瓦解する寸前だった。明治と改元された後、静岡藩主となった徳川家に従って移り住み、兵学寮教授に。さらに新政府の海軍兵学校教授、海軍中将、貴族院議員などを歴任した。その子孫は、静岡県磐田市に在住、長らく市長を務めた。
網干区余子浜の旧家、加藤家に残る初代網干町長、邦太郎を讃える「頡秀碑(きっしゅうひ)」の勝海舟揮毫は大三郎の依頼によるという。祖父、泰助の墓は新在家の本栁寺にある。
このころ、赤穂二万石、森藩中でも尊攘運動の嵐が吹き荒れた。文久二年(一八六三)十二月十八日、参政村上天谷らの首脳が、尊攘運動に身を投じた西川竹吉ら十三人の下士層に暗殺された。天谷は赤穂藩の儒者の子で、岡田南涯らに師事し、天保十二年(一八四一)、参政に取り立てられた。当時、藩主、森忠真と家老の間に軋轢があったのも暗殺事件の一因になったという。このとき天谷の実子、河原士栗も襲われて死んだ。三十六歳だった。
余談ながら、維新後の明治四年(一八七一)、天谷の遺子、四郎らの一族は西川竹吉ら暗殺者の一味を紀州作水峠(高野山)に待ち伏せて復讐した。日本最後の仇討ち事件で、当時は“赤穂志士高野の殉難”として半ば称賛された。
文久三年、世情はいよいよ騒然の状況を呈する。長州藩を中心とする尊攘派は、攘夷の即時実行を幕府に迫り、奉命しないときは一挙に討幕―王政復古を実現しようと天皇の大和行幸を計画した。だが、計画は中川宮を中心とした親幕派、薩摩・会津両藩を主力とする公武合体派によって粉砕されてしまう。史上有名な「八・一八政変」である。〈つづく〉